豊田市の大給山中(おぎゅうやまなか)城址は築城時期、築城者不明の城跡です。松平氏発祥の地である松平郷、そして大給松平氏の拠点だった大給城の近くにあります。弘治元年(1555)頃、三河をほぼ領国化した今川氏が、反今川勢力を攻めるためにこの地に進軍し、大給城城主・松平親乗が撃退した大給山中古戦場も近くにあります。
大給山中城址と大給山中古戦場は、愛知県中世城館跡調査報告(愛知県教育委員会)や愛知の城(山田柾之著・ブックショップ マイタウン)には載っていない地元に伝わる城と古戦場です。今回は地元の方に案内していただき巡ってきました。
城跡と古戦場の行き方
大給山中城城址と大給山中城古戦場へのアクセス方法を説明します。まずは城と古戦場がある豊田市九久平町入坂に行きます。目標物としては次の3つが近くにあります。
・山中天神社
・九久平ふれあい広場
・山中公民館
その地区にある晒田と入坂の十字路交差点にまず行きましょう。(駐車場がありませんので車は駐車可能な然るべき場所に停めましょう)
はい。晒田と入坂の間にある十字路交差点に着きました。北を見ると民家の奥に山が見えますが、そこが大給山中城址と大給山中城古戦場です。そのまま坂を登り奥へ向かいます。
すると道の上を橋が通っている民家があります。そのまま橋の下の道を進みます。
民家の橋をくぐり50mほど進むと山に向かう脇道があるのでここから山に登ります。
脇道すぐの様子。電柱に【辰廻り(たつまわり)】の札がありますが、何なのかわからず。
200mくらい進むと地蔵と看板があります。ここが城址古戦場の分岐点ですので、ここを拠点(目印)にします。ここまでたどり着けばもうすぐです。
よく見ると豊田市が建てた立派な看板でした。
弘治元年(1555)、このころ今川氏の三河鎮国化は、ほぼ完成したと考えられますが、織田氏と結んでの反今川氏の動きも多くみられました。
今川方の遠州犬居城主 天野景泰(あまのかげやす)、二俣城主 松井宗心(宗信とも:桶狭間で討死)らは、織田氏に近づく反今川派勢を抑えるため兵を出し西三河山間部を転戦しましたが、大給山中の戦いでは大給城主松平親乗(推定)に大きな損害を受けたとされています。
豊田市
大給山中城址への行き方
では看板を拠点にまずは大給山中城址へのアクセス方法を説明します。看板の奥に左手に上がる坂道があるのでそこを登ります。途中、左手に現代の墓地があるので、それを目印に登っていきます。
すると、お堂の跡みたいな場所というか石柱があります。ここが城跡です。そのまま後ろに曲輪みたいな削平地がありますが、どうもそこが大給山中城の本丸みたいです。
本丸は人工的な削平地になっており、地元の石碑が建てられていました。何か地元的な説明もほしいですね。
横を見ると、いかにも曲輪みたいな削平地もありました。ここを進むと…
ゆるやかに下りになっていますが、ここにあ山中城表門の札がありました。ここが大手ということでしょうか?
大給山中城の遺構は曲輪と堀切みたいなものが残っていますが、印象的だったのはその地形です。曲輪の外はほとんど急峻な崖になっており、ガクンと下がっています。甲冑着てここを登るとなると、上がるまでにかなり疲れてしまうでしょうね。
あと城内には土橋を想わせる、尾根を巧みに利用した場所もあります。地形をうまく使っている城です。
古戦場への行き方
次に山中古戦場へのアクセス方法です。また看板を拠点にします。山中城址とは違い、看板の近くの地蔵の前の道を進みます。(山に慣れない人が行くと風景が同じに見え迷いやすいです。自己責任でお願いします)
分岐から200mほど進むと地元の方々が建立した石碑がありました。
この付近一帯は 大給城攻防で反今川派としての戦は熾烈で 今でも人馬の異様音 土中から骨 刀が出たと伝わる
平成六年六月六日 山中有志建立
周辺は普通に山なので、この石碑があるおかげで古戦場といえますね。私の感想ですが、石碑には大給城攻防とあるので、大給山中城は臨時の砦みたいな役割だったのでは?と思います。
所要時間と私の感想
所要時間について。晒田と入坂の間にある十字路交差点から城址、古戦場をめぐりまた交差点に戻って来るまで約1時間でした。写真を撮りまくり、現地でいろいろ考えながらでこの時間です。
私の感想ですが、今川氏が三河を領国化したという歴史は有名ですが、それに反発した人たち、そしてそれを抑えるために出陣した今川家臣たちの歴史が、豊田市にあったのは驚きでした。大給山中城址も大給山中城古戦場も詳細が分からないので、今後の研究に期待したいと思います。