織田信長が成人(元服)した時、4人の家老が付けられました。その中で最も信長に関わったと思われるのが平手政秀です。通説ですと素行が悪かった信長を諫めるために自害したといわれますが、平手政秀の史跡は名古屋市に分散しています。その史跡をこの記事でまとめてみました。
居城跡:志賀城址
平手政秀は織田信長の傅役(もりやく:教育係)でしたが、所領を持った領主でもありました。その拠点としたのが現在の名古屋市北区にある志賀城址です。現地には平手政秀宅址とありますが、館の周辺を掘りと土塁で固めた館城だったのでしょう。
首塚:東雲寺
切腹した平手政秀の首塚といわれるものが名古屋市西区東雲寺にあります。ここも政秀の墓所と考えていいでしょう。
菩提寺:政秀寺
菩提寺である政秀寺は歴史上、移転を繰り返し現在では名古屋市中区3丁目にあります。
瑞雲山と号す臨済宗妙心寺派の寺院である。天文二十二年(1553)織田信長が、自分の素行不良を嘆いて諫死した平手政秀の菩提を弔うため、小牧山の南、政秀の領地小木村に創建し、沢彦和尚(たくげんおしょう)を開山とした。寺は天正十二年(1584)小牧・長久手の戦いで焼失、その翌年清須に再興され、慶長十五年(1610)清洲越で現在地に移建された。本尊は木造十一面観音菩薩坐像である。
政秀の墓はかつて本寺にあったが、今は市の平和公園墓地政秀寺墓域に移されている。
名古屋市教育委員会
墓所:平和公園
政秀寺の現地看板にあった様に平手政秀の墓所は千種区の平和公園にあります。東雲寺が首塚なので平和公園の墓所は胴塚ということでしょうか?
私の感想
織田信長の傅役・平手政秀の史跡を集めてみましたがいかがでしたか?平手政秀は尾張時代の織田信長を語る時によく出る武将なので、ゆかりの史跡は貴重だと思います。