狙撃説は本当?武田信玄が生涯最後に攻めた三河新城市の野田城跡

 かつての三河国である愛知県新城市の野田城は、戦国時代この地に勢力を持っていた菅沼氏の居城で、武田信玄が生涯最後に攻めた城です。

 元亀四年(1573)、遠州三方ヶ原(現在の静岡県西部)で徳川軍に勝利したイケイケの武田軍が、攻め落とすのに約1ヶ月もかかった事から、堅城として知られています。

■野田城の場所の住所■

新城市豊島本城

野田城の場所の地図

詳しい野田城の歴史 | ウィキペディア

 野田城は歴史的に見ても武田信玄が絡んでおり、遺構も濃厚に残っているのですが、日本100名城にも指定されておらず、また県市町の指定史跡でもなく、思いっきり個人所有の土地ですが、地主さんのご厚意によりある程度自由に見学できます。

 では三河野田城の見どころをチェックしてみましょう!

レンカクシキの城

 まずは現地案内看板にある縄張り図をチェックしてみましょう。この図を見ると本丸、二の丸、三の丸が一列に並んでいることが分かりますよね?

 このタイプの城を連郭式(れんかくしき)といいます。

 天守を持つ近世城郭にも見られ、有名どころでいえば盛岡城(もりおかじょう:岩手県盛岡市)、水戸城(みとじょう:茨城県水戸市)など。

 この連郭式の縄張りの特徴は、三の丸を落とさないと二の丸に攻める事ができず、二の丸を落とさないと本丸を攻める事ができないという点です。

 『だったら横や後ろから攻めればいいじゃん!』

 と思いますよね?しかしこの連郭式の城は、側面を堀や崖で防御しており、力攻めすると攻めてにも大きな被害が出る城なのです。

 元亀四年(1573)に武田信玄が野田城を攻めた時も、一説によればその後に織田信長との決戦を想定していたため、できるだけ力攻めをしたくなく、そのために落とすのに約1ヶ月もかかったのではないかといわれています。

 それだけ堅城だったという事ですね。

現在に残る堀や土橋

 では城内をチェックしてみます。城内は現在、杉林になっており、あまり生い茂っておらず比較的楽に散策できます。

 でも夏は蛇や虫がいるので、あまりオススメできませんけど。

 野田城の堀。現在でも場所によっては3~5mくらいの深さがあります。野田城は廃城になって400年以上経つので、当時はもっと深かったのでしょうね。

 そして注意してみたいのが本丸手前の土橋(どはし)。これも城の防御のひとつで、分かりやすく簡単に言えば、両側に堀がある土の橋です。

 どんな防御効果があるのかというと、攻める側はこの土橋の前では横に広がる事ができずに一列に並ぶしかないのです。なぜかというと、横に広がると左右にある堀に落ちるから(笑)。

 その一列に並んだところを正面、もしくは側面から攻撃されるという危険な防御施設です。野田城みたいな土の城にはもちろん、名古屋城などの近世城郭にも、この土橋という遺構はあります。

金掘り人足が開けた穴

 野田城の現地案内看板を見てみると、何やら気になる×があります。これが甲州の金掘り人足が開けた穴といわれるものです。

 野田城を包囲した武田軍は、野田城がなかなか落ちなかったので、攻め方をある方法に切り替えました。

 それが野田城の井戸水を絶つという戦法。

 よくいわれる話ですが、人間は米などの食べるものが無くても水さえあれば、1週間(約7日間)近く生きる事ができるそうです。

 しかし水が全くなければ、数日で死んでしまうとか。それだけ人間にとって水は大事なのですね。

 そこで武田軍は、甲州(甲斐国:現在の山梨県)で活躍していた金堀人足、つまり金山を掘る職人を使い、野田城の側面に穴をあけ、城内の井戸の水脈を絶つことに成功しました。

 それがキッカケで野田城は開城したのですが、その金堀人足が開けた穴というのが現在でも残っています。

 これですね。今でも城の側面にあり、穴は埋まっているものの、肉眼で確認できます。でも足元も悪いので、あまり近づかない方が良いでしょう。

 ちなみに城内には大きな井戸跡があり、これが水を抜かれた井戸かな?と思います。現在では埋まっていますが、この井戸の水脈が絶たれたのですね。

馬乗り石

 野田城内にある野田城址の石碑の前に置いてある石は、城主・菅沼 定盈(すがぬま さだみつ)が馬に乗る時に使った石だという伝承が残っています。

 これも郷土史レベルの話なので、説明がないとわかりませんよね。

信玄が鉄砲で狙撃された?!

 野田城には武田信玄が火縄銃で狙撃されたという伝説が残っています。詳細は次の通り。

 野田城を攻めていた時、いつの頃からわかりませんけど、毎晩城内から美しい笛の音が聞こえてきました。

 信玄は笛好きだったので、この笛を聞くのが楽しみになっていたとか。

 城内でも城の外の異変に気付き、『笛を吹くと武田軍の身分の高そうな人物がいつも対岸に聞きにくる』と話が広まりました。

 そこである夜、いつもの様に笛を吹いていると武田軍の身分の高そうな人物が出てきたので、鳥居三左衛門という鉄砲名人に狙撃させたところ、どうやら当たったらしく、武田軍は大騒ぎになりました。

 この武田軍の身分の高そうな人物というのが信玄だったらしく、信玄はもともと病気で体調が良くなかったのですが、この時の鉄砲傷がより体調を悪くして、甲斐に戻る途中で亡くなってしまったそうです。

検証してみたら…

 この信玄狙撃説を個人的に検証してみました。私は愛知県古銃研究会に入会しており、毎年、歴史祭りや歴史イベントで古式火縄銃演武を行います。

 玉は入っていませんが本物の火縄銃を使い、本物の黒色火薬を使って、古式火縄銃演武を再現するのです。

 また日頃から火縄銃に関しての研究も行っており、その感想から言うと、火縄銃の有効な効果はおおよそ100mくらいであるという事。

 では100m越えるとどうなるかというと、照準が大幅にブレたり、当たったとしても効果が激減するという事が考えられます。

 野田城内には、武田信玄を狙撃した場所が新城市教育委員会によって検証されています。

 また野田城の対岸に法性寺という寺があるのですが、ここには信玄が撃たれたという場所が残っているのです。

 つまり信玄を撃った場所、撃たれた場所があるので、その距離を地図で調べてみると…

 約60mくらいです。物理的には火縄銃の有効範囲内の出来事です。また夜で暗かったと思いますが、鳥居三左衛門は月明かりで狙撃できるほどの名人だったともいわれています。

 この信玄狙撃説は、今後もいろんな歴史家や研究者によって検証される事だと思います。ただ現時点では、野田城がある三河にこの様な話があるという事をチェックしておいてください。

 ちなみにこの時に使用した火縄銃は信玄砲という名前で、現在では新城市設楽原歴史資料館で展示されています。

 新城市設楽原歴史資料館は、長篠設楽原合戦の場坊柵近くにあるので、野田城と十分セットで訪れる事もきますよ。

>>新城市設楽原歴史資料館の地図

>>新城市設楽原歴史資料館の信玄砲について

私の感想

 ということで私の野田城の感想ですが、この城は歴史的に見ても遺構の残り具合を見ても、かなりオススメの城だと思います。

 私は友人と城巡りする時、この野田城と作手の古宮城(続100名城)、または馬坊柵の設楽ヶ原古戦場、そして設楽原歴史資料館をセットにしますが、それくらい巡り甲斐がある城なんです。

 でも基本的には杉林なので、夏場はタブーですし、冬に訪れる際にもスニーカーなどで足元はシッカリと固めておくことをオススメします。

 前述しましたが、100名城でもありませんし、県市町の指定史跡でもありませんが、この野田城は歴史本や大河ドラマなどにもたまに出ますので、是非、チェックしておきましょう。

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