家康が竹千代時代に幽閉されていた名古屋市熱田区の加藤順盛屋敷跡

徳川家康が幼少の竹千代時代に過ごした場所が、名古屋市熱田区に残っています。それが加藤順盛屋敷跡です。別名・熱田羽城跡。

家康が生まれた頃の松平家(徳川家の前身)は、尾張の織田氏との仲が悪かったのですが、松平家だけで対抗できず、駿河の今川氏の力を頼っていました。

そのかわりに松平家の嫡男・竹千代が駿府に人質として預けられる事になっていたのですが、田原城の戸田氏が竹千代をさらい、織田氏に売り飛ばしてしまいます。

これが竹千代事件です。

織田氏に売り飛ばされた竹千代は、熱田の有力者・加藤順盛(のぶもり)の屋敷で約2年間過ごすことになります。

ちなみにこの時に信長(当時は吉法師)と出合ったといわれています。

現在では屋敷跡の遺構はなく、住宅街となっていますが、名古屋市教育委員会の看板と熱田羽城の石碑が建っています。

ところでこの加藤順盛の屋敷があった場所について、もうひとつチェックしておきたい事があります。

それがかつて熱田の町があった場所という事です。この熱田の町がいったい何なのかというと、桶狭間合戦にゆかりがある場所なのです。

信長公記に記載があるエピソードなのですが、尾張の鯏浦(うぐいうら:現在の弥富市)に信長に抵抗していた服部友定という武将がいました。

友定は駿河の今川義元に呼応して、千艘ほどの軍船で大高城に向かいました。

しかし今川義元が討たれてしまい、仕方なく鯏浦に引き返そうとしますが、手ぶらでは帰れないと思ったのか、当時、織田氏の勢力下にあった熱田の町を焼き払おうとします。

服部軍は熱田の港に船を付け、遠浅の浜から上陸して、町口に火を付けようとしましたが、この時なんと熱田の町人たちが逆に服部軍に攻めかかり、数十人を討ち取りました。

服部友定は部が悪いと思ったのか、仕方なく鯏浦に引き上げたのです。

私の感想ですが、ここでのポイントは、戦国時代の町人たちも自分たちを守るための戦力を持っていたという事だと思います。

なぜかというと、現在の私たちの感覚で言えば、町人=非戦闘民というイメ―ジがありますが、それは江戸時代の町人のイメージで、戦国時代の町人はある程度、武装した集団というか勢力だった事がわかります。

後に豊臣秀吉によって刀狩りが行われますが、この刀狩りの表向きの理由は、方広寺大仏殿の材料にするという事でしたが、実際には農民や町人といった武士以外の人達に武器を持たせたくないという事でもあったといわれています。

桶狭間合戦で服部水軍を返り討ちにした熱田の町人たちを率いていたのが、熱田の有力者の加藤氏だったのでしょう。

ところで関ケ原合戦後の慶長八年(1603)に、徳川家康が熱田の加藤氏に140石の土地を与えていますが、これは幼少期に世話になったお礼といわれています。

加藤順盛屋敷跡の地図

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