埋蔵金や巨人伝説が残る今川軍に落とされた知立市の重原城跡

 愛知県知立(ちりゅう)市の重原城跡は戦国時代の山岡氏の居城で、知多半島の水野氏を攻めようとしていた今川軍に落とされた城です。

■重原城の場所の住所■

知立市上重原町本郷38

重原城の場所の地図

信長公記には鴫原

 信長公記には【鴫原城】(しぎはらじょう)と記載があります。平安時代からこの地には荘園があり、それを管理する荘司、もしくは地頭の館があり、これを重原城としたのではなないかといわれています。

 城主として記載があるのは荒川氏と山岡氏。

 織田信秀(信長の父)の家臣・荒川新八郎という人物居城し、天文十七年(1548)に松平広忠(徳川家康の父)と戦っており、この時の重原城は尾張の織田氏に属していた事が分かります。

 天文二十三年(1554)の時は織田方の山岡河内守(信長公記には山岡伝五郎)という人物が城主でした。この人は知立神社神官・永見氏の娘を妻とし、非常に信心深かった人で、山岡氏が再建した多宝塔が今でも知立神社に残っています。

 さて天文二十三年(1554)に今川氏は知多半島の水野氏を攻めるために、村木砦を築こうとしますが、その足掛かりとして重原城を攻めました。結果から言うと重原城は落城。山岡氏も行方不明との事ですが、おそらくはこの戦いで亡くなったのではないかといわれています。

 落城した重原城ですが、戦いの過程でいくつかの伝説や言い伝えが生まれ、現在でも残っています。今回はそんな重原城の現状レビューと伝説を紹介しますね。

重原城の遺構

 まずは重原城の石碑から。重原城跡は名鉄三河線・重原駅から徒歩3分の場所にあります。ある意味、駅前の城址です(笑)。上重原公民館の建物の裏側に石碑が建っています。

 石碑が建っている前方に川(水路)がありますが、これがかつての重原城の堀跡といわれています。現在では見事な水路ですが、当時はもっと幅も広かったのかもしれません。

 公民館のすぐ隣りは民家ですが、よく見ると土塁が残っている事が分かります。民家側からも見えますが、公民館の駐車場からでもこの土塁は確認できます。

巨人伝説が残る権現石

 重原城跡の周辺は住宅地になっていますが、その一画に権現石(ごんげんいし)というのが祀られています。

 重原城が今川軍に攻められていた時、重原城は苦戦していたのですが、その時に重原城の大手門に仁王様の様な大男が現れ、今川軍の矢から城を守りました。

 この間に城主の山岡氏は難を逃れたといわれていますが、重原城が落城した後、大手門近くには、矢がたくさん刺さっている大きな石が残されていました。これが権現石です。

 現在では祠の中にありますが、よく見てみると矢が刺さった跡の様なものが、確かに残っています。

首切り坂

 重原城が落城しそうになった頃、城主の山岡河内守(伝五郎)は、まだ子供だった息子を家臣に託して逃がします。

 しかし南の猿渡川(さわたりがわ)を渡りきろうとしていた場所で、今川軍に捕まってしまい、山岡河内守の息子と家臣はその場で最後を迎えました。それが現在、首切り坂といわれている場所です。

 以前は看板が建っていたのですが、現在では限られた郷土史家の中でのみ、その場所が伝えられています。

首切り坂の場所の地図

埋蔵金伝説

 これは重原城が落城する前のオハナシ。今川軍が攻めてくるという情報を聞いた城主の山岡河内守(伝五郎)は、城内の財宝を隠す事にしました。

 しかしその場所は限られた家臣にしか教えておらず、現在でも不明なのです。でも財宝を隠した場所を示す暗号というか言葉が残っています。それが次のものです。

 朝日の照る夕日の輝き

 この場所にお宝が眠っているそうな。具体的には現在の重原町もしくは西中町あたりといわれています。

山岡氏の多宝塔

 山岡氏が再建した多宝塔が現在でも知立神社に残っています。現地には知立市教育委員会の案内看板も建っており、それによると永正六年(1509)に再建されたもので、国指定重要文化財です。

 中に入る事はできませんが、知立神社の境内に大きく建っているので、参拝した時は忘れずににチェックしてみてください。

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