南知多町の一色城跡は三河国吉良荘一色(現在の西尾市)から勢力を伸ばしてきた一色氏が築いた城です。
一色氏は足利氏の一門(一族のこと)で、三河国吉良荘一色(現在の西尾市)を拠点に知多半島や渥美半島にも勢力を伸ばしてきました。大野城(常滑市)を築き、知多半島全域を支配していた時期もあったのです。一色城跡は現在、知多四国45番・泉蔵院の敷地となっています。
■一色城址の場所の住所■
知多郡南知多町大字内海字南側69番地
一色城へのアクセス
一色城址への行き方を説明します。まずは知多四国45番・泉蔵院を目指します。車でアクセスする場合、泉蔵院の駐車場が利用できます。そして坂を登って泉蔵院へ向かいます。
泉蔵院への坂の途中に一色城址へのアクセス看板があるので、これに沿って登って行けば簡単です。
泉蔵院の建物が見えてきたらそのまま上に登ります。展望台の方ですね。
展望台に着くと…山の方へ登っていく細い坂道があるのでそのまま奥へと向かいます。
すると一色氏と一色城についてという看板があります。ここが城跡です。看板には一色氏と一色城について詳しく書いてありますが、スマホだと見にくいので文字を起こして書いてみます。
看板の内容
一色範氏は三河国吉良荘一色の出身で十四世紀の初頭、知多半島において貞和元年(1345)常滑大野谷の大興寺を再興し、観応五年(正平七年・1350)範氏の子・一色範光が大野谷の南の高台宮山に宮山城(大野城)を築いている。
このように一色氏は大野谷を中心に勢力圏を築き南北朝にかけて勢力を貯え、やがて分国守護として知多半島全域を支配するようになり、足利尊氏に属し北朝方として活躍する。
一色氏は知多半島と向かい合う渥美半島にも進出して三河湾の制圧に努めた。赤羽の高松、渥美の和地、知多半島南部の野間、当地内海に『一色』の字名残している。
一色範氏は宮山城(大野城)を本拠とし、この地南知多町内内海字前山に一色城を築く。 築城年次は不詳。大永年間1521年以前と云われ、宮山城築城の1350年以降と推定される。 一色城は伊勢湾に臨み内海側を扼(やく)する所にある山城で、現在の泉蔵院境内を含む一帯である。
現在遺構は幅約10m、 深さ4mの堀切 A、 その内側の幅約8m、 高さ約2mの土塁 B がセットとなり、 丘陵先端部にある、曲輪1・2を囲んでいる。従って、堀切 A より丘陵先端部が城郭遺構(城跡)と考えられる。
城主一色氏は内海井際山観福寺の一坊であったものを城内に移転し、現在の尾風山泉蔵院になったと伝えられ、北隣の臨海山慈光寺の山門は一色城の大手門に当たり鐘楼兼用の二重門である。
一色城は南朝方の拠点、師崎の羽豆城や蜂屋城に対する押さえの城として築かれ、後に内海佐治氏の本拠となり、この半島南部の要衝の地となった。同じ内海川西に位置する岡部城(内海城)との関わりも興味深いものがある。
参考文献… 『中世城館遺跡調査報告Ⅳ』・『田中和人著戦国期の知多』・『南知多町誌』等を基にしてここに一札を建てる。 平成24年1月 内海・山海まちづくり協議会『きづなの会』地域文化イベント部会 古道史跡班
そして縄張り図
看板に記載してある縄張り図。これは愛知県教育委員会発行の愛知県中世城館跡調査報告Ⅳ知多地区に記載してある縄張図を着色したものです。
舌状台地の先端部分が城跡です。北、西、南は海で攻め込むことができず、唯一地続きの東側は土塁と堀切で敵の侵入を遮断できる仕組みになっています。今では埋め立てられていますが、かつては海に突き出た半島みたいな地形だったのでしょう。
一色城の移築門
一色城の看板を見ると、泉蔵院の隣にある慈光寺の山門がかつての一色城の大手門、つまり城門ということが書いてありました。一色城の移築門がすぐ近くにあるのでこれはセットで巡っておきたいです。
門を見ると古い箇所もあれば新しい部分もあります。一色城の廃城から数百年経っていますので、全部が当時のものという訳ではないですね。
私の感想
私の一色城跡の感想ですが、戦国時代以前の知多半島を治めていた一色氏の居城ということで興味深いものがありました。遺構が残る部分はかなり生い茂っており、正直、冬じゃないとキツイです。一色氏は戦国時代というより南北朝時代(1336~92)が好きな人にオススメだと思います。