美浜町野間には鎌倉幕府を開いた源頼朝の父・源義朝(みなもとのよしとも)の最後の場所、つまり亡くなったと伝わる場所があります。それが法山寺の東にある源義朝公横死の湯殿水跡です。
■源義朝公横死の湯殿水跡の住所■
知多郡美浜町野間田上103
なぜここで源義朝は討たれ最後の場所になったのか?そしてなぜそれが風呂場なのか?わかりやすく簡単の説明します。
再起途中に起きた悲劇
源義朝は平治の乱(1160)に敗れ再起を図るために東国に戻る途中、年来の家人で鎌田政清の舅でもあった長田忠致(ただむね)、景致(かげむね)の領地・尾張国野間(美浜町野間)に身を寄せます。
しかし長田忠致,景致父子は義朝の首は恩賞になると思い、正月の初湯に招いて風呂場で殺害します。その風呂場が美浜町野間田上に残る源義朝公横死の湯殿水跡です。
現地はこうなっている
知多四国霊場第55番札所でもある法山寺のすぐ近くに湯殿跡(風呂)は残っています。美浜町居いう育委員会の看板に簡単な説明もあります。
これが湯殿跡。江戸時代の五右衛門風呂みたいに沸かすタイプの風呂ではなく、温泉でしょうか?それとも別の場所でお湯を沸かして運ぶタイプの風呂でしょうか?大きさはパッと見、池?と思うくらい広いです。
湯殿跡に建つ源義朝公之像。これが鎌倉幕府開いた源頼朝の父です。令和四年(2022)NHK大河ドラマ・鎌倉殿の13人では義朝は出演しませんでしたが、源頼朝役の大泉洋(おおいずみよう)さんらの会話で、父である源頼朝のことがしばしば出ていました。
ちなみに剣の達人だったといわれた源義朝でしたが、長田忠致,景致父子に襲撃された場所が風呂場ということもあり丸腰でした。その時、『我れに木太刀の一本なりともあれば』つまり木刀のひとつもあればこんな事にならなかったと言い残したそうです。そのゆえんで野間大坊(大御堂寺)にある源義朝の墓には、木太刀(木刀)の形をした札が奉納される様になりました。
私の感想
私の感想ですが、鎌倉幕府を開いた源頼朝の父である源義朝の墓と最期の地が意外な場所にあったと思いました。また野間大坊には織田信長の三男・織田信孝の墓もあり、周辺にも歴史史跡が固まっているので、セットでまとめて巡るのがオススメです。