美浜町野間で源義朝を討った長田忠致,景致父子はりつけの松と長田屋敷跡

美浜町野間のはりつけの松は、源義朝(源頼朝の父)を討った長田忠致,景致(おさだ ただむね,かげむね)父子が磔(はりつけ)になった墓標の松です。そして近くには長田氏の屋敷跡があります。

関東へ落ち延びようとしていた源義朝を討ち、平家に付こうとしていた長田忠致,景致親子が磔になったのも美浜町野間です。どんな経緯があったのか?わかりやすく簡単に説明します。

義朝の暗殺

平治の乱で敗れた源義朝は関東に落ち延びる途中、長田忠致,景致親子の領地だった尾張国野間(現在の知多郡美浜町)を訪れます。しかし義朝は正月の初湯に招かれ、丸腰になったところを襲われて亡くなりました。

その後、平家打倒の軍を上げた源頼朝は、恨みを押さえて長田忠致,景致父子に対して、『手柄を立てれば褒美を与える』といい、長田忠致,景致父子は美濃と尾張を所望したいと申し出ます。頼朝が了承すると長田忠致,景致父子は猛烈に働き、しばしば手柄を立てました。

そして論功行賞の時、長田忠致,景致父子は頼朝の前に召し出され、『美濃、尾張(身の終わり)を与える』と申し渡され、そのまま磔になりましたとさ。

そして磔の松

長田忠致,景致父子がはりつけにされたと伝わる場所には、墓標代わりの松が植えられました。それが野間大坊近くにある長田父子磔の松です。

■長田父子磔の松の住所■

知多郡美浜町野間松下105

>>長田父子磔の松の場所の地図

美浜町教育委員会のはりつけ松跡地の看板。

磔になった長田忠致,景致父子が残した辞世の句が石碑に刻まれています。

ながらえし 命ばかりは壱岐守 美濃尾張(身の終わり)をば いまぞたまはり

墓標となった磔の松は今では朽ち果てて添え木に支えられています。この松に張付けられたという訳ではなく、墓標代わりの松と伝わります。

そして屋敷跡

はりつけの松のふもとに長田親子の屋敷跡の看板がありました。現在では畑地になっており屋敷の遺構は残っていません。

■長田屋敷跡の住所■

知多郡美浜町野間新松下

>>長田屋敷跡の場所の地図

ちなみに子孫は…

長田忠致の兄・親致の子孫に長田重元がおり、その息子が長久手の戦いで羽柴軍の池田恒興を討ち取った永井直勝です。直勝の父は長田の姓ですが、直勝が家康に仕える時、かつて主君を裏切った長田の姓を永井に直させたとか。

ちなみに直勝は江戸時代には大名になっており、上野小幡藩主、常陸笠間藩主、そして下総古河藩では7万2千石の藩主になっています。

私の感想

私の長田父子磔の松の感想ですが、ここも源義朝ゆかりの史跡ということで、平安時代末期や源平合戦に興味がある方は訪れておくことをオススメします。またこの磔の松とセットに周辺の史跡も巡ることができますね。

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