知多郡美浜町の大御堂寺、通称・野間大坊の主な歴史史跡をまとめてみました。野間大坊は天武天皇(673~686)の時代に『阿弥陀寺』として建立された寺で、周辺には鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝の父・源義朝や織田信長の三男・織田信孝が最後を迎えた地があります。
野間大坊のアクセス
まずは野間大坊のアクセスから。電車で行く場合は最寄りの名鉄野間駅を目指します。また車で行く場合は無料駐車場があるので、アクセスも便利です。
>>電車、車で美浜町の野間大坊へのアクセス方法と駐車場について
源義朝最後の地
源義朝が最後を迎えた場所は、なんとお風呂でした!源義朝は平安時代末期に京都で起った平治の乱で平清盛に敗れ、尾張国野間へ逃れました。義朝の家臣・長田忠致・景致親子は義朝を快く迎えましたが、義朝を亡き者にして平家に差し出せば恩賞をもらえると思ったのか、義朝の暗殺を実行します。
正月の初湯に義朝を招き、丸腰になったところで襲いかかり暗殺したのです。その場所は湯殿跡として現在でも残っています。
乱橋と仙人塚
義朝暗殺の報を聞いた家臣たちが湯殿に向かう途中、長田親子の家臣たちが迎え討とうとした場所です。この橋の周辺で乱戦があったといわれます。
乱橋の戦いで亡くなった人達を供養した千人塚。また義朝の胴体を埋葬した場所ともいわれています。
血の池
源義朝の首を洗ったと伝わる地の池と伝わる池。今でも水があります。
源義朝の墓
源義朝の墓は、大御堂寺の中にあります。墓の周辺を見るとたくさんの木が置いてありますが、これには次のエピソードがあるからです。
お風呂で長田父子に襲われた義朝は丸腰でした。そりゃお風呂に入っているのですから当然ですよね。そして息絶える寸前、『せめて木刀の1本もあればこんな事にはならなかったものを…』と言い残して亡くなったそうです。その後、義朝の墓には木刀を模した木の札が奉納されることになりました。
ちなみにこの木の札は1本500円と有料なのですが、願いを書いて奉納すると叶うといわれ、どちらかというと義朝を偲ぶ人達というより、願いを叶えたい人達が参拝しています。
池ノ禅尼の塚
池禅尼(いけのぜんに)の供養塔。池禅尼は平清盛の継母に当たる女性で、義朝の息子・頼朝が処刑されそうになった時、清盛に頼み込んで処刑ではなく追放処分にしてくれた人物です。まあ、これが遠因で頼朝が助かり、平家滅亡の遠因にもなりましたけどね。
長田父子磔の松
義朝を裏切った長田父子が磔になったば場所です。長田父子は源氏を裏切ったものの、源氏の力が強くなると今度は平氏を見限って源氏に付きます。そして壇ノ浦の戦いで功績を上げました。戦後、源頼朝に対して、『褒美として美濃と尾張をもらいたい』と願い出ます。
すると頼朝は『では望み通り、身の終わり(美濃・尾張)を授けよう』といって長田父子を捕らえ磔にしたとか。父・義朝の仇ですからねぇ。その長田さん親子を磔にした松の場所です。
織田信孝の墓
野間大坊にはもうひとつの歴史ゆかりの史跡があります。それが織田信長三男・織田信孝の最後の地と墓です。信孝は本能寺の変後に柴田勝家から織田家の跡取りに推挙されましたが、羽柴秀吉の推挙する三法師(後の秀信)に敗れます。
そして兄・信雄との兄弟ゲンカにも敗れ、野間の地に追いやられ最後を迎えます。その信孝の墓です。義朝の墓所と同じ場所にあります。
織田信孝最後の地
信孝が最後を迎えた場所は、大御堂寺のすぐ近くにある安養院という寺でした。寺の中は非公開ですが、今でも信孝を偲ぶ人達が参拝を続けています。
史跡巡りのコツと感想
今回たくさんの史跡を紹介しましたが、個々の史跡の場所を詳しく記した散策マップを野間大坊で配布しています。参拝者は無料でもらえるので、まずはこの地図をゲットしましょう。
そして各史跡は歩いて巡る事をオススメします。その理由は、歩くと距離感を地形を体感できるからです。所要時間ですが、歩いて約2時間くらいで全て周る事ができると思います。源義朝の源平時代はもちろん、織田信孝の墓もありますので、戦国時代が好きな方もオススメの野間大坊です。