信長の偽書で義元に成敗された武将!富部神社の戸部城趾と戸部新左衛門政直の石碑

名古屋市南区の富部神社に2つの石碑があります。ひとつは戸部城趾。もうひとつは戸部新左衛門政直(とべしんざえもん まさなお)と刻まれています。

戸部城と戸部新左衛門、実は戦国時代にこの周辺で活躍した戦国武将で、桶狭間の戦いにも関与している人物でした。ちなみにアニメ・「忍たま乱太郎」のキャラクター・戸部新左ヱ門のモデルになった武将といわれています。この記事ではそんな戸部城と城主の戸部新左衛門についてわかりやすく説明します。

■戸部城の場所の住所■

名古屋市南区呼続4丁目13−34

>>戸部城の場所の地図

>>富部神社公式サイト

戸部新左衛門の看板

富部神社境内に戸部新左衛門政直公という看板が建立されています。字が細かく読みにくいので、看板に何が書いてあるのか引用してみます。

悲運の武将

尾張織田と駿河の今川氏が対立していた戦国時代。戸部城主の戸部新左衛門は今川義元の忠実な家臣で武勇に優れ最前線で善戦していました。

手を焼いた織田信長は何とか新左衛門を亡き者にしようと画策し、新左衛門の筆跡を過信に真似させ、信長に内通している旨の偽書を書かせました。そして家臣森蘭丸の父三左衛門(森可成)に偽書を持たせ駿河に送り込みました 。

偽書を信じた義元は烈火の如く怒り、新左衛門を呼び寄せ、途中吉田(現在の豊橋市)で有無を言わさず切腹を命じたのです。弘治三年(1557)五月一日。新左衛門は無念にも非業の死を遂げました。

今川義元が桶狭間の戦いに没した3年前のことで、この謀略がなければ義元の上洛がありえたかもしれないと言われています。

まず戸部新左衛門はこの地の豪族で、織田信秀に従っていましたが、信秀が亡くなり跡を継いだ信長に反抗し、駿河の今川氏に付きました。一節には今川義元の妹婿になっていたとか。また武勇に優れ、力攻めでは被害が大きいと考えた信長は、偽手紙作戦で戸部新左衛門と今川義元を騙すことに成功します。

人質交換事件

岡崎より駿河へ人質として送られる途中の松平竹千代(後の徳川家康)が略奪され、尾張織田方へ送られました。その頃、信長の兄・信広が安城の戦いで今川・松平連合軍に敗れ捕虜となっていました。 天分十八年(1549)新左衛門の仲介によって笠寺観音境内で竹千代と信広の人質交換が円滑に執り行われたと伝えられています。 

この事を示す石像が笠寺観音(笠覆寺)の境内に建てられています。

戸部蛙

勇猛なことで知られる新左衛門は、自分の前を横切るものを『無礼者』と切り捨てることがあったそうですが、飛んで逃げるカエルは切ることができなかったという言い伝えがあり、これに因んで『戸部蛙』 という郷土玩具が作られるようになりました。 

この戸部蛙は地元では有名な玩具で、名古屋城にも展示がありました。

戸部新左衛門政直公霊位

明治七年、子孫にあたる美濃国本巣郡軽海村の戸部吾氏が新左衛門の霊を慰めるため戸部城跡に墓碑を建立しました。 昭和四年の区画整理で戸部町3丁目に移され、金原鈴夫氏書の戸部城趾の碑が設置されました。 そして有志(戸部保存会)により毎年命日に戸部家の子孫を招いて供養祭が実施されてきました。

平成十八年、新左衛門正直公没後450周年慰霊祭が営まれ、この霊位は平成二十八年ここ戸部神社境内に移築されました。

戸部保存会書

これは富部神社境内に建立してある碑のことです。もともとはここにあったのではなく、戸部3丁目にあったものを平成二十八年に富部神社境内に移築したそうです。ちなみに平成二十八年以前にこの石碑があった場所は、名鉄本線・本笠寺駅の北西。いちご幼稚園近くでした。現在では開発により石碑があった場所の名残は残っていません。

私の感想

私の戸部新左衛門の感想ですが、全国的に知られている武将ではないものの、この地域の戦国時代では重要な人物だったと思います。また戸部新左衛門が桶狭間合戦まで存命だったら、織田信長の勝利はどうなっていたのか?これも歴史のIF(イフ)ですが想像すると面白いです。

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