名古屋市南区呼続4丁目の長楽寺(ちょうらくじ)は動物霊園として有名で、あの盲導犬サーブ号も眠っています。この長楽寺は弘仁十二年(821)に空海が創建し、永正五年(1508)に駿河の今川氏が諸堂を再建したという歴史があります。実はこの長楽寺には、戦国時代の織田領と今川領の境界線といわれるものが残っているのです。
■長楽寺の場所の住所■
名古屋市南区呼続4丁目13−18
境界線への行き方
長楽寺に残る戦国時代の織田領と今川領の境界線の場所へのアクセス方法を説明します。長楽寺に入ったら清水稲荷殿がある南側に向けて歩くとすぐにみつかります。徒歩での所要時間は約1分です。分かりにくかったらお寺の人に聞いたほうが早いでしょう。
そして境界線
境界線は堀みたいな谷になっています。この谷を基準に長楽寺側が旧織田領。その反対側が旧今川領です。
今川氏といえば駿河が本拠地なのになぜ尾張にまで?という疑問があります。結論から言うと、戦国時代初期頃は、今川氏の勢力圏は現在の名古屋城辺りまでありました。
現在の名古屋城二の丸あたりに戦国時代初期、那古野城(なごのじょう)がありましたが、その城主が今川義元の弟といわれる今川氏豊でした。その今川氏豊から那古野城を奪ったのが織田信長の父・織田信秀です。
現在、長楽寺がある笠寺は戦国時代には海に囲まれた台地になっていました。その中で織田に付いた勢力、今川に味方する城がありました。そこで鳥栖城(成田氏)、桜中村城(山口氏)、戸部城(戸部氏)が今川方に付き、防衛ラインができてます。そこで今川方と織田方の領土の境が長楽寺辺りだったのでしょう。
境界線といわれる谷に降りてみました。高さは5mほどでしょうか。私の感想ですが、戦国時代の寺は自衛のための僧兵や外敵に攻められないように堀、土塁を施していたので、この境界線といわれる谷も長楽寺の堀だったのかもしれません。長楽寺は江戸時代の東海道脇にあるので、城巡りだけではなく街道歩きの時にも立ち寄れるスポットだと思います。