織田信長が初めて実戦で火縄銃を使用した愛知県知多郡東浦町の村木砦跡

 愛知県知多郡東浦町の村木砦跡は、今川氏が水野氏の緒川城を攻略するために築いた砦で、織田信長が実戦で初めて火縄銃を使った記録が残る場所でもあります。

■村木砦跡の住所■

知多郡東浦町森岡取手30

村木砦の場所の地図

 なぜこの場所に今川氏が砦を築いたのか?そして狙われた水野氏はどうなったのか?そして信長はどの様に火縄銃を活用したのか?合戦は天文二十三年(1554)に起こったといわれていますので、桶狭間の戦いの6年前ですね。そんな村木砦の戦いのあらすじを信長公記からピックアップしてみると次の通りです。

・織田氏との決着がつかない今川氏は、織田の同盟者・水野氏を攻める作戦に切り替えた

・池鯉鮒の鴫原城を攻略して足がかりとし、村木砦を築いた

・水野氏から援軍を要請された信長は、斎藤道三から留守番の兵を借り、緒川城を救援に向かう

・信光叔父さんも加勢で来てくれた

・しかし今川方に付いた寺本城の花井さんが街道を封鎖

・結果、信長は陸路で救援に行けず、嵐の海を渡って緒川城に到着

・翌日から村木砦攻め。この時、信長は火縄銃を使用。夕方には落城

・那古野城に帰る途中、花井さんの寺本城下に火を放ち、ちゃんと仕返し

 簡単にいうとこんな感じの流れです。詳細を知りたい方はウィキペディアでチェックしてみてください。

村木砦の戦い |ウィキペディア

 この村木砦の戦いの話は、信長公記でもまるっと1話使って解説してあります。そして信長が実戦で初めて火縄銃を使った戦ということで、信長研究でも注目されている合戦です。

 ではそんな村木砦跡と周辺の史跡をチェックしてみましょう。

まずは八剱神社に行く理由

 まずは知多郡東浦町森岡取手30にある、八剱神社(やつるぎじんじゃ)に向かいます。この八剱神社は、元亀二年(1571)に水野信元の家臣・清水八右衛門家重と清水権之助政晴が、戦没者鎮魂を願って創建したものです。

 この八剱神社を含む周辺が村木砦跡で、いろんな史跡も点在していますので、まとめて巡ってみましょう。

 アクセスですが、電車で訪れる時はJR武豊線の尾張森岡駅が最寄り駅になります。駅から歩いて約10分くらいです。

 車での行き方は、この記事の最初に書いた八剱神社の住所や地図を参考にアクセスしてみましょう。ただ村木砦には駐車場が無いので、周辺の駐車可能なしかるべき場所に駐車するようにしましょう。

 八剱神社に建立された石碑。このほか村木砦の戦いに関する案内看板もあります。

 地図で見た八剱神社の位置。村木砦の南側に位置している事が分かります。信長公記には次の様に村木砦の特徴が記載されています。

・北は天然の要害で守備兵もいない

・東が大手(当時は海)

・西が搦手(からめて:裏門)

・南側には向こう側がハッキリ見えないくらい大きい甕(かめ)状の堀があった

 今では東の海も埋め立てられ、南にあった堀もありませんが、現在の地形や現況と、当時を比べる事ができますね。

かつては海だった東

 村木砦の東、JR武豊線の線路の向こうは、かつては海でした。今では埋め建てられて畑地になっていますが、東側は低くなっています。ちなみにこの海の向こうが現在の愛知県刈谷市で、水野氏の居城・刈谷城がある地です。

本丸はここ

 現在の八剱神社の北側に村木砦の本丸がありました。現在は民家と畑地になっており、砦時代の遺構は残っていません。

周辺の史跡は何がある?

 八剱神社の看板をよく見てみると、周辺にも村木砦の戦いゆかりの史跡が点在している事が分かります。主に次の4つです。

・村木神社

・後廻間

・処刑場跡

・飯喰場、首塚

全て歩いて散策できる範囲内なので、村木砦とセットでまとめて散策してみましょう。

村木神社(信長本陣)

 織田信長が村木砦を攻める時に本陣を置いた場所です。現在は村木神社になっていて、当時の遺構らしきものは残っていませんが、この本陣といわれる場所が、村木砦の戦いを研究する上で重要になってきます。

■村木神社の場所の住所■

知多郡東浦町森岡天王西27

村木神社の場所の地図

後廻間(織田信光本陣跡)

 村木砦を西側、搦手側から攻めた織田信光の本陣があったとされる場所です。八剱神社の案内看板を見てみると、後廻間(うしろはざま)と記載がありますが、現在、この地名が残っていませんでした。

 そこで東浦町史を調べてみると、現在の東浦町森岡中町周辺が、かつて後廻間と呼ばれていた場所でした。

 現在では閑静な住宅街となっており、陣跡の詳細な場所や遺構らしきものは残っていないのですが、村木砦の西側にあり、ここから村木砦方面を見ると高くなっている事が分かります。

 つまり村木砦の西側にあった砦を見下ろすことができた山の上という事です。

処刑場址

 村木砦が築かれた時、今川方に寝返ったこの地の役人を戦後に処刑した場所です。ここは空き地になっていました。そしてすぐ近くの個人宅の庭に村木砦に関する石碑が建立されています。

飯喰場、首塚

 飯喰場(いくいば)は、合戦に勝利した信長が戦勝祝いの酒盛りをした場所といわれています。

■飯喰場の場所の住所■

東浦町森岡中町28−6

飯喰場の場所の地図

 飯喰場の住所を見てみると、看板が建っている場所の住所は東浦町森岡中町になっていますが、隣の区画のの住所が東浦町森岡飯喰場になっています。

 ここも閑静な住宅街になっていますが、住人の方々はこの地名の由来を知っているのだろうか?

 ところで飯喰場の看板をよく読んでみると、信長公記に記載がない戦いの様子が浮かんできます。それが次のポイント!

信長は本陣を移動していた?

 村木砦を落とした後の信長について、信長公記には次の様な記載があります。

信長は本陣に帰ってから、部下の働きや負傷者・死者のこと、あれこれとなく言って、感涙を流したのであった(新人物往来社:現代語訳信長公記より)

 これを見ると、合戦後に本陣に帰り、家臣(部下)の労をねぎらった様に書いてあります。

 信長の本陣は、村木砦の南にある現在の村木神社といわれているので、村木神社の場所で部下の労をねぎらったと思われそうですが、気になるポイントがあります。

 それが飯喰場の看板。看板を見ると、飯喰場で兵にねぎらいの言葉をかけ、戦勝祝いの酒盛りをしている事から、信長の本陣がココに移動していた可能性があるということですよね?

 合戦では村木砦の南側から攻める事を担当していた信長ですが、途中で本陣を村木砦の西側に移動している可能性があります。

 この本陣移動について、信長公記には何も記載がありませんが、もしかすると南側から敵を追い詰め、西側から突破できそうだったので西側を集中攻撃するために本陣を移した…なんて仮説も考えられますね。

私の感想

 私の村木砦の感想ですが、この砦跡は信長の鉄砲デビューの地としてチェックしておくことをオススメします。

 なぜかというと、村木砦跡には遺構らしきものは残っていないものの、石碑や看板がありますし、東側の高低差、そして周辺の史跡をセットにすることで、史跡巡りのボリュ-ムもアップするからです。

 さらに同じ町内には水野氏の緒川城址、そして境川の向こうには、同じく水野氏の居城だった刈谷城址公園もあるので、車が使えればこれらの城址もセットにできますよ。

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