大政所(豊臣秀吉の母・なか)生誕地伝承がある名古屋市昭和区御器所の御所屋敷跡

名古屋市昭和区御器所の御所屋敷は、豊臣秀吉の母・大政所(なか)が生まれたといわれる場所です。

 ※大政所の読みは おおまんどころ

■御所屋敷の場所の住所■

名古屋市昭和区御器所(ごきそ)3丁目22

御所屋敷の地図

 秀吉の母として知られる大政所は、従一位まで上り詰めた女性ですが、その素性はハッキリしていません。長い歴史の中でも、いつの頃から御器所の人といわれる様になりました。記録があるのが、天野信景の随筆・【塩尻】で、『尾州愛智郡御器所村の人也』と記載があります。

 また江戸時代後期の天保年間(1830~44)に尾張藩がまとめた【尾張志】にはあ、次の様な記載があります。『この御器所村の古老伝説に太閤秀吉の母堂は、この御器所屋敷に住んで秀吉を産み、そこで御所屋敷という様になった』これをそのまま解釈すれば、豊臣秀吉の生誕地ともいえる場所ですね。

 でも名古屋市教育委員会によると、この地には持萩(もちはぎ)中納言の屋敷があったという伝説があり、『なか』が持萩中納言の娘という伝説と結びついて、この地が大政所(つまり『なか』)の生誕地といわれる様になったのではとのこと。

そんな御所屋敷跡は、現在、住宅地の中のひっそりとした空き地になっています。石碑と名古屋市教育委員会の案内看板、そしてお社が建っています。

石碑の側面を見ると、【傳曰 持萩中納言宅跡豊公母…】みたいな事が刻まれています。もしここに持萩中納言の屋敷が本当にあったとして、どのくらいの規模だったのか?そしてどのような屋敷だったのか?そういった詳細は謎なんですね。

御所屋敷周辺の地形を見ると下がっています。これは逆に言えば御所屋敷が周辺より高くなっているのです。昔の土地は大雨でも浸水しないというのが良い評価でしたので、高台にあるケースは多いです。御所屋敷も同じですね。

私の感想は、例え伝説レベルの史跡でも、こういった史跡があるよ~という事でチェックしておいた方が良いと思います。なぜかというと、最近、歴史の常識がどんどん変わっているからです。

例えば聖徳太子が存在しなかったという説が広まり、次に存在はしたけど違う名前だったという説が定説になったり。さすがに秀吉の母が公家の娘だったというのはどうかな?という思いもありますが、昭和区御器所を訪れた時は、この史跡もチェックしてみてください。

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