愛西市田尻城址は地元で語り継がれる謎の城です。現在では合併前の立田村教育委員会の案内看板と石碑があります。
■田尻城の住所■
愛西市三和町田尻
現地看板
田尻村は寛永元年(1624)に立田輪中が一円輪中になったときに開発された村とされていますが、それ以前から独立した小さな村として人々が住んでいました。この村は、石田村や高田村など立田輪中内の一つの区切りとしての位置にあり、望楼を兼ねた砦の性格を持つような建造物が必要であったと思われます。
嘉永三年(1850)に庄屋の八左衛門が家数一七軒の小さな村として尾張藩に報告した文書の末尾に『当村城跡丸の内と申す場所も御座候』とあり、城があったことが分かります。また詳しい由緒書などもありましたが、以前に尾張藩からお尋ねがあった時に差し出し、現在は残されていないことも報告しています。今では城主の氏名など詳しいことは分かっていません。
後世、これを田尻城と呼ぶようになりました。ここから南西へ10メートルほどに大きな池がありました。馬洗い石は、その池の端にあり、馬を乗せて背中を洗ったと言い伝えられています。今では池も石も埋まってしまいました。
立田村教育委員会
田尻城址周辺の様子。城の遺構らしきものは残っていません。場所的な事をいえば、この田尻城址のすぐ西を木曽川が流れていますので、国境近くの城だったのでしょう。私の感想ですが、田尻城は遺構は無くとも、地元に語り継がれた城なので、もしかすると戦国時代に滅ぼされた土豪の居城だったのかもしれません。