織田信定が攻め津島衆が逃げ込んだ橋本大膳の愛西市早尾東城址

愛西市早尾町(旧立田村)に残る早尾東城址は織田信定(信長の祖父)に攻められた津島衆が逃げ込んだ城跡です。現在は常徳寺になっています。

■早尾東城の住所■

愛西市早尾町村北115

>>早尾東城の場所の地図

早尾東城跡の歴史

現地には看板がありますが読みにくいので文字を起こしてみます。

早尾東城跡

早尾東城は十六世紀の初めに、津島の豪族大橋源三右衛門によって創建されたと推定されます。 大永四年(1524)、勝幡城主 織田信定が津島を攻めました。津島衆は、早尾東城へ逃れて戦いましたが、戦いに敗れ城を明け渡して和睦しました。

本能寺の変(1582)後、尾張の領主である織田信雄の配下、橋本大膳が城主となりました。このころの城は東西一町(約180m)・南北三十間(約55m)ほどで、城の近くに一四、五軒の民家が立ち並んでいたと伝えられています。

やがて橋本大膳が矢合城主として去った後、早尾東城は廃城となりました。文禄元年(1592)その跡地へ常徳寺が建てられ、現在に至っています。なお、東城に対して早尾西城もあったと伝えられていますが、詳細は不明です。

立田村教育委員会

ここに記載がある織田信定とは織田信長の祖父で、当時は勝幡城を拠点にしていました。織田家が津島湊を勢力圏に置く時にあった城ですね。また橋本大膳の父は織田信長の鉄砲の師範(先生)の橋本一巴(いっぱ)で、橋本一族は戦国時代に現在の稲沢市周辺にいくつか城を持っていた豪族でもあります。

早尾東城の現在は常徳寺になっており、堀や土塁などの城の遺構みたいなものは残っていません。

古地図で見てみる

今昔マップon the web の明治31年(1898)の古地図で早尾東城を見てみます。旧早尾村(集落)の東に位置し、さらに東を海部幹線水路(あまかんせんすいろ)と旧佐屋川が流れています。集落の東を守る様な場所です。

早尾西城推定値

立田村教育委員会の看板には早尾西城があったことが書かれていますが、記録も残っておらず場所もわかりません。その中で私的に城跡みたいな場所があるので早尾西城の推定地として記載しておきます。

早尾東城跡の常徳寺から西へ約400mのところに高台があって、そこが城跡っぽい雰囲気です。地図で見るとここが集落の端でもあります。またこれより西側はずっと平地です。もしここに城があれば集落の西を守る様な場所なので、城を築くのであれば好立地だと思います。

私の感想

私の早尾東城の感想ですが、遺構は残っていないものの、郷土史がどんどん繋がっていくので興味深いと思いました。津島、勝幡城、そして織田信定(信長の祖父)、橋本一族など、西尾張の戦国時代の様子がどんどん結びついていくのが歴史の面白さだと思います。

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