愛西市の十二城址は平安時代の武将である、板垣冠者兼信(いたがき かんじゃ かねのぶ)の居城跡です。
■十二城址の住所■
愛西市町方町十二城
板垣冠者兼信とは誰?
板垣冠者兼信(いたがき かんじゃ かねのぶ)とは、平安時代末期の武将。甲斐源氏四代当主で武田氏初代当主・武田信義の三男です。
また板垣氏の祖で、子孫は武田氏に仕え、後の戦国時代には一族の中から武田信玄の傅役(もりやく:教育係)となった板垣信方(いたがき のぶかた)を輩出します。まあ、それは後の活躍として、平安時代には尾張に住んでいたこともあり、その居城が十二城ということですね。
そして城跡
十二城城址は御池洲山唯称寺を含む周辺といわれています。唯称寺と隣接する民家を見てみると周辺より高台になっている事がわかります。これはこの辺の昔からの民家によく見られますが、石垣を組んで屋敷地の地盤を高くしているのです。
その理由はこの周辺が平地なので、大雨や洪水で浸水しやすいから。その対策として、昔ながらの場所は人工的にも高い作りになっています。
周辺は濃尾平野。平地が遠くまで続きます。平地の城の防御の工夫としては、高低差が活用できないので湿地帯、または堀などが有効です。
十二城の意味
地元では十二城(じゅうにじょう)ではなく、十二城(じゅうにしろ)とも読み、その由来は12の棟をもつ複数の館であったともいいます。つまり有力者の敷地にいくつもの建物がある館城みたいなものだったのかもしれません。
堀跡の伝説
唯称寺前に池がありますが、この池は十二城の堀跡といわれています。人工的に掘ったものなのか?それとも、もともとあった池を堀代わりに使っていたのかは謎ですが、今でも水を湛えています。
またこの池は地元では龍神伝説が残っており、神聖な池なので屋敷の人でも決して池の水を汲む事がなかったとか。しかし昭和になって防災面や安全面で池の周りをコンクリ-ト補修する際、池の水を全てかき出そうとした事があったそうです。その時、なかなか底が現れず、また池の中は、すり鉢状でかなり深かったとのことです。
私の感想
私の十二城址の感想ですが、時代はかなり古いものの、伝説や周辺の地形mなど楽しむ事ができました。また城跡の石碑など、これからも大切にして頂けたらと思います。