柴田勝家の生誕地・名古屋市名東区の下社城址(明徳寺)

名古屋市名東区(めいとうく)陸前町の明徳寺は、かつての下社城址です。ここは織田信長の家臣・柴田勝家が生まれた場所、つまり生誕地といわれています。

※下社の読みは(しもやしろ)

■下社城址の場所の住所■

名古屋市名東区陸前町1310

>>下社城の場所の地図

柴田勝家は大永二年(1522年)に生まれたといわれますが、生誕地は下社城ではなく、近くの一色城という説もあります。柴田氏は斯波氏の一族で、斯波高経四代の子孫・重勝(義勝とも)が越後国柴田の城主であった事から【柴田】姓を名乗り、尾張にやってきてこの地を拠点としました。この柴田重勝という人が、勝家の祖父(もしくは父)といわれている人物です。

下社城にはかつて、勝家が初陣の時に手植えした松があり、出陣する時に次の句を詠んで母に渡したという話が残っています。

『初陣に 松一本手植えして 負ければ墓地のしるしとやせむ』

勝家の初陣の時の年齢、戦場、対戦勢力、結果など不明ですが、後に武名を轟かす彼らしい一句ですね。令和五年(2023)NHK大河ドラマ・どうする家康では、俳優の吉原光夫さんが柴田勝家役でした。

そんな下社城址は、現在名東区陸前町にある明徳寺になっています。

寺の入口にある愛知懸の石碑。下社城址と書かれています。

入口の階段を登っていくと、柴田勝家公誕生地の石碑と、名古屋市教育委員会の案内看板もありました。この看板を見ると、勝家の生誕年は享禄三年(1530)になっており、諸説がある事がわかりますね。【張州府志】という資料によると、下社城址は江戸時代には田んぼになっていた様で、この時すでに遺構は残っていなかった様です。現在も明徳寺の入口に石碑2つと案内看板が建っているだけですが、その立地が城址を偲ばせています。

 柴田勝家出生地

 勝家は享禄三年(1530)この地で生まれたといわれる。幼名を権六といい、織田信長の重臣で、勇猛な武将であった。主君の命で近江長光寺城を守っていたとき、佐々木丞禎に城を攻められ、籠城に備えた飲料用の『水がめ』を割り士気を鼓舞して大勝を得た『かめ割り柴田』の逸話は、人々によく知られているところである。ここ明徳寺は正暾山と号し、真宗高田派の寺院である

 名古屋市教育委員会

それが下社城址の高低差です。明徳寺の周辺は、西側の国道302号線から見ると高台になっていますが、明徳寺はさらに高い場所あります。

現在ではビルやマンションばかりですが、当時は西側に向けてかなり見晴らしが良い城だったのではないかというのが私の感想です。

明徳寺(下社城址)がある坂のふもとに勝家坂という碑があります。柴田勝家から付いた名前なのでしょう。柴田勝家は全国区の有名な戦国武将ですが、愛知県内にはゆかりの史跡が少ないです。勝家ファンの方だけではなく、尾張時代の勝家に興味がある人は是非、チェックしてみてください。

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