初代名古屋城主・徳川義直の性格がわかる5つの逸話

徳川家康の九男で初代名古屋城主・徳川義直の人柄を伝える逸話が5つあります。

それぞれチェックしてみましょう。

峻烈なる帝王学

二代光友の若い頃、父の義直が光友に年に1、2回は呼び寄せて人払いの上、密談や意見交換をしていたそうです。

ある夏の日のこと。

光友が義直と密談している間、蚊が左手に止まったので、右手で払いのけたところ義直が大声で、『親の意見より蚊の方が大事か』と隣機嫌を損ねこの後半年ほどは義直は光友に声をかけなかったそうです。光友は後々までこの時の事を家臣たちに話していました。

通らぬ筋には妥協せず

三代将軍・家光の子・竹千代(後の四代将軍家綱)が生まれて間もない頃。尾張の義直、紀伊の頼宣、水戸の頼房の3人に老中の松平信綱が言いました。

『将軍様(家光)からの命令ではないのですが、竹千代様がお宮参りに江戸城近くの山王社に出かけるので、今回は3人もお宮参りの行列に従ったほうがよろしいでしょう』

ところが義直は『無位無官の赤ん坊のお宮参りに大納言の官職を持つ者が付き従う例はない』と断りました。

松平信綱は『無位無官と言っても竹千代様は将軍様のお子様です』と説明すると、義直は『親の官位を言うのであれば、我々3人(義直、頼宣、頼房)は家康公の子供であるからなおのこと従えないと主張しました。

この結果、行列に従うのではなく3人が山王社に先回りして行列を迎えることになりました。

初陣とは思えぬ肝の据わり様

大坂冬の陣のことでした。家康が藤堂高虎の陣を訪ねた際、義直と頼宣が同席し義直は陣の櫓の上に登りました。

義直が城内を見ると、城内から鉄砲が多く放たれたため、高虎も鉄砲を用意したのですが、義直は鉄砲を取り上げて傍らに置くだけで顔色ひとつ変えなかったので高虎は失わの勇気に感じ入ったとのことでした。

将軍をも許さぬ高いプライド

寛永年間(1624~44)頃、三代将軍・家光は京都に出かける時、義直に『帰りには必ず名古屋城へ立ち寄る』と伝えました。

義直は大変喜んで準備しましたが、家光は訳あって急ぎ直接江戸に帰ることになりました。そして名古屋に立ち寄るのを取りやめたのです。

義直は大変立腹し、準備も無駄になり、世間にも面目が立たず、籠城して運を天に任せようといい、参勤も取りやめました。

これは一大事になったと幕府も考え、使者を何度か送っては、義直に謝ったため、義直も気を取り直し、以前のように江戸へ参勤しました。

家光は『今回江戸に来てくれて嬉しい。もしいつになっても来ないのであれば、私が鳴海まで迎えに行くつもりであった』とおっしゃりこの一件は治ったそうです。

寝ている時も油断せず

義直は昼寝で熟睡している時も目を開けたままで、足の親指で畳をたたいて銚子を取り、寝返りの時も目覚めたように見えないのに横に置いた脇差を取って置き直したそうです。

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