信長公記の著者・太田牛一が修行していた名古屋市北区味鋺の成願寺

太田牛一という戦国武将をご存知ですか?彼は現在、織田信長研究の第一級資料になっている信長公記(しんちょうこうき)の著者です。

太田牛一は大永七年(1527)に生まれ、尾張国春日井郡山田荘安食村(現在の名古屋市北区)の出身といわれています。子供の頃、成願寺(じょうがんじ)で修行しており、その後、斯波義統をはじめ柴田勝家、織田信長、丹羽長秀、丹羽長重、豊臣秀吉、豊臣秀頼といった戦国時代の大名や権力者に仕えました。

この太田牛一には自分の武器というか長所、つまり得意なスキルが2つあって、それが弓と筆まめです。

褒美をもらうほどの弓の腕前

まずはひとつめのスキルである弓ですが、かなり得意だったらしく信長にその腕を認められ、直臣として近侍衆に取り立てられます。

さらに永禄七年(1564)、美濃斎藤氏の堂洞城を信長が攻めたことがあるのですが、この時牛一は二の丸の入口にある高い建物の上に一人で上がり、無駄矢もなく矢を射かけていました。これを信長が見ており、『小気味よい見事な働きである』と、三度も使いをよこして称賛しました。合戦後、褒美として知行を増やしてくれて、この事が信長公記にもシッカリと記されています。

もうひとつのスキルが筆まめ

牛一はいろんな出来事のメモを取っており、晩年そのメモをまとめて信長や秀吉の伝記を書いています。特に信長の【信長公記】は前述した様に信長研究の第一級資料とされています。

また秀吉の伝記である【大かうさまくんきのうち】(太閤様軍記の内という意味)は、秀吉の最古の伝記として重要文化財に指定され、慶應義塾大学が保有しています。

全て牛一の目で見た記録ではなく、合戦などの出陣した人から聞いた話もあったりで、信長公記は方角がおかしかったりしる点もあります。でも信長や秀吉と同時期に生きた人物の著書ということで、牛一の著書は非常に貴重なものなんですね。

さて、そんな牛一が読み書きを学んだのが成願寺で修行している時と思われますので、そう考えてみると成願寺も貴重な戦国史跡です。

成願寺はここ!

その成願寺は現在、名古屋市北区にあります。住所が成願寺2丁目なので、地名もそのまま成願寺。昔からこの地に影響があった寺なのですね。

■成願寺の住所■

名古屋市北区成願寺2丁目3-28

成願寺の地図

なんか近代的な寺だこと…それもそのはず、住職さんに聞いてみたら、戦国時代の成願寺はココではなくもう少し北側にあったとの事。北側?そう、現在の矢田川がある場所です。

昭和八年(1933)の河川工事で成願寺は現在の場所に移転したそうで、戦国時代にあった場所はすでに川になっています。場所は少しズレましたが、それでも戦国時代から現在まで存続しているのはスゴイですね。

現在の成願寺には牛一ゆかりのものはありませんが、牛一が修行していた寺ということで、ここもある意味、戦国ゆかりの史跡だと思います。

成願寺がある地名はそのまま成願寺。古刹の寺があると、そのまま地名になるケースですね。

そして御朱印も

これは成願寺の御朱印。太田牛一のことには触れていませんが、慈眼山成願寺という文字がクッキリ入っています。

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