織田信長の初陣は大惨敗だった?!碧南市に残る十三塚の地名の由来

 

毎日文化センターで城巡り講座を行います。それが【歩いて巡る愛知の古城・史跡】。現地集合、解散で歩いて城跡や戦国史跡を散策します。計7回シリーズですが、好きな回だけ参加する1DAY講座です。城好きの方々と愛知県内のディープな戦国史跡や城跡を一緒に巡りませんか?

>>詳細はこちら

織田信長研究の第一級資料・信長公記に信長の初陣の記述があります。それによると信長の初陣は元服した翌年の天文十六年(1547)年。この時信長14歳。

初陣は何をやったかというと、駿河から軍勢が入っていた三河の吉良・大浜(現在の西尾市~碧南市)へ手勢を連れて出陣。諸所に火を放ちました。

その日は野営をして、次の日那古野城へ着陣したという1泊2日の行程。

信長公記を見ると、織田信長の初陣は戦闘らしきものはなく、当時敵であった今川勢の諸所(村とか役所とか)に放火して帰るという、楽勝のセレモニー的出陣だったのです。

でもね?郷土史では…

全国的には信長公記により、そんな感じで知られている織田信長の初陣ですが、地元の愛知県碧南市には全く違う話が伝わっています。それは…

織田信長の初陣は大惨敗だった…

というもの。どういう事か?

これは地元の【碧南市の昔話】に伝わるものを分かりやすく要約したものです。

織田信長の初陣は、三河の吉良・大浜(現在の西尾市~碧南市)だったのですが、本当の任務は今川方の武将・長田重元の居城だった大浜城を攻めるというものでした。

実はこの時、大浜城主の長田重元は城を出る用事があったのですが、敵である織田軍が攻めてくるという報告を聞いて急遽、迎え撃つことになりました。

何も知らない信長率いる織田軍は、天王の森(現在の碧南市天王町)付近で長田軍と戦闘になりましたが、不意を突かれた織田軍は次第に退却。そのまま敗戦となります。

その時、信長はタダで帰ってはなるものかと、近くの村々に火を放ち退却しました。またこの時、織田軍はかなり追撃され、多くの戦死者を出したといわれます。

勝利した今川方の武将・長田重元は亡くなった織田軍の将兵のために塚を作ったのですが、戦死者が多すぎて13の塚ができました。

後世、この13の塚があった場所が十三塚という地名になり碧南市に残ったそうです。

十三塚はどこだ?

現在、碧南市には十三塚という地名は見当たりません。しかし地元の歴史を調べてみると、現在の碧南市向陽町付近が、かつて副十三塚と呼ばれ、それ以前に十三塚という地だったとか。

また一説によると、愛知県立碧南高等学校~碧南市立中央小学校付近が、かつての十三塚と呼ばれていたところだとか。ちなみにここも向陽町です。

現在では開発が進み、住宅地と広い道路で戦死者を祭った塚らしきものは見当たりませんでした。

私の感想

私の感想ですが、今回の織田信長の初陣のハナシは、郷土史レベルの興味深さを体験できるものだと思います。

その理由は、全国的に知られている織田信長の初陣のハナシと、地元に残る話はかなり食い違ったものだからです。

信長公記⇒ 無事に終了

地元の話⇒ 大惨敗

どちらが本当なのか?これは今後の研究に期待されることなのですが、ひとつ言える事は、全国的に常識として伝わっている事でも、地元に伝わる話では全く異なるという事例があるという事です。

これも歴史の面白さのひとつですね。

愛知県の城跡や戦国史跡を訪れる社会人サークル・【愛知ウォーキング城巡り倶楽部】。活動は基本的に奇数月の第一土曜、もしくは日曜日。現地集合、現地解散で行われる見学会です。城好き、戦国好きの方が在籍していますが、歴史に詳しいなどは関係なし!好きならそれでOKです。入会費や年会費などもないので、あなたも気軽に遊びに来てみませんか?

>>詳しくはこちら

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク