本多忠勝の兜が鹿角なのは桶狭間合戦が理由だった!岡崎市鹿ヶ松の逸話

 

毎日文化センターで城巡り講座を行います。それが【歩いて巡る愛知の古城・史跡】。現地集合、解散で歩いて城跡や戦国史跡を散策します。計7回シリーズですが、好きな回だけ参加する1DAY講座です。城好きの方々と愛知県内のディープな戦国史跡や城跡を一緒に巡りませんか?

>>詳細はこちら

徳川四天王のひとり、本多忠勝の兜といえば、大きな鹿の角をデザインした鹿角脇立兜(かづの わきだて かぶと)が有名ですよね。

でも?本多忠勝はなぜ鹿の角を兜に採用したのか?

実は愛知県岡崎市にその逸話が残っています。しかも桶狭間合戦の時のオハナシです。

永禄三年(1560)、駿河の今川義元は尾張に侵出しましたが、桶狭間で討ち取られてしまいます。

当時、本多忠勝は13歳。松平元康(後の徳川家康)に同行して大高城に兵糧を入れたのが初陣でした。

その後、敵である織田軍の丸根砦と陥落させると再び大高城に入り休憩。その時に今川義元討死の報せが届きます。

この時、松平元康は急ぎ大高城から撤退。松平家の菩提寺である岡崎の大樹寺(だいじゅじ)に向かいます。

しかし前日の雨で矢作川が増水して渡ることができず、途方に暮れていた時、一匹の鹿が現れて川をスイスイ歩いて渡っていきました。

よく見ると鹿が渡った場所は浅瀬になっており、元康たちはその浅瀬から矢作川を渡って無事に大樹寺にたどり着くことができました。

地元の逸話ではこの時、鹿が松平元康(後の徳川家康)の命を救った事から、自分もこの鹿の様に主君を守りたいという想いで、忠勝は兜に鹿角のデザインを採用したといわれています。

その現場

今回紹介したエピソードの場所は、現在でも残っています。それが岡崎市北野町にある鹿ヶ松(しかがまつ)、別名・三鹿の渡し跡といわれる場所です。

後に徳川幕府によってこの地に松が植えられたので、この名前が付きました。

■鹿ヶ松の場所の住所■

岡崎市北野町上池12-8

>>鹿ヶ松の場所の地図

現在では小さな松が植えてありますが、これは最近のものです。

現地看板によると、かつては大きな松だったのですが、松喰虫によって枯れてしまい昭和28年に伐採されました。現在では代わりの松が植えられています。

伐採された鹿ヶ松の切り株は、今でも北野町公民館に保存されています。

徳川家康渡舟之所

松平元康(後の徳川家康)が桶狭間合戦後に矢作川を渡ったといわれている場所は、鹿ヶ松(三鹿の渡し跡)のほかにもう一カ所あります。それがお隣の豊田市配津町にある徳川家康渡舟之所です。

■徳川家康渡舟之所の場所の住所■

豊田市配津町十六通

>>徳川家康渡舟之所の場所の地図

ここの石碑には次の様な文面が刻まれています。

 「大高城ヲ脱シ神退ヨリ仁木村ヘ臣下7人 船人配津村半三郎銀銭三文長刀一振書付受ク」

これを見ると元康たちを助けたのは鹿ではなく、配津村(現在の豊田市配津町)の半三郎という船人です。

元康達を舟に乗せ、対岸である仁木(現在の岡崎市仁木町)へ渡して、そのお礼として銀銭3文と長刀1振をもらったそうです。

私の感想

戦国時代のエピソードをたどると、複数の場所があったりします。例えば古戦場や武将の生誕地、そして墓所など。

私の感想ですが、この徳川家康が矢作川を渡った場所というのもそれと同じで、当時の詳細な記録が残っていないことで、この様な複数の説が出るのだと思います。

さて、どちらが本当なのかという歴史の真実は別として、この際2カ所ともまとめて巡ってみてはいかがでしょうか?どちらの史跡も同じ矢作川沿いにありますし、車で移動するなら所要時間20分ほどの場所です。

また岡崎市や豊田市の城や史跡とセットで巡ってみるのもよいですね。

愛知県の城跡や戦国史跡を訪れる社会人サークル・【愛知ウォーキング城巡り倶楽部】。活動は基本的に奇数月の第一土曜、もしくは日曜日。現地集合、現地解散で行われる見学会です。城好き、戦国好きの方が在籍していますが、歴史に詳しいなどは関係なし!好きならそれでOKです。入会費や年会費などもないので、あなたも気軽に遊びに来てみませんか?

>>詳しくはこちら

スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク