松平広忠から離縁された於大の方が住んだ刈谷市の椎の木屋敷跡

 刈谷市の椎の木屋敷跡(しいのきやしきあと)は、徳川家康の生母・於大の方が岡崎の松平広忠から離縁(離婚)された後、坂部城の久松俊勝へ再婚するまでの間住んでいた屋敷の跡です。

■椎の木屋敷の場所の住所■

刈谷市銀座6丁目58−1

椎の木屋敷の場所の地図

なぜここに屋敷があるの?

 於大の方は初代刈谷城主・水野忠政の娘で、岡崎の松平広忠に嫁いでいました。夫婦の仲は良く、息子の竹千代(後の徳川家康)を産んだ於大でしたが、幸せな日々は長く続きませんでした。

 父・忠政の死後、家督を継いだ於大の兄・信元が、天文十四年(1544)に松平氏の主君である今川氏と絶縁して、何と今川・松平氏の敵だった織田氏と同盟を結ぶ事になったのです。

 これにより於大は離縁(離婚)され、当時実家である刈谷城に戻ってきましたが、城内ではなく、城の外の小高い丘に屋敷を構え住んだのです。これが椎の木屋敷です。

 於大は三年後の天文十七年(1547)に兄・信元の意向で知多半島の坂部城(現在の阿久比町)主・久松俊勝に再嫁するまで、椎の木屋敷に住んでいました。

 そんな椎の木屋敷跡は江戸時代には神聖な霊地となり、一般人は出入りすることも許可されず、保護されたのです。

 そして明治四年(1871)井上氏がこの土地を譲り受けて庵室を作り、大部分を庭園として古い面影を残しましたが、昭和に入り開発が進み住宅地となりました。

 その後、刈谷市が市制30周年記念事業としてこの地を譲り受け、於大の方を顕彰する由緒ある旧跡として保存することになりました。

 その椎の木屋敷跡は現在公園になっており、市民はもちろん、徳川家康や於大の方が好きな人が訪れています。

椎の木屋敷跡はこうなっている!

 では早速椎の木屋敷跡へ行ってみましょう!でもその前に気になるポイントがあります。それは高低差です。

 椎の木屋敷の西側に刈谷城址がありますが、西側から見ると椎の木屋敷跡が高くなっています。城の方角に向けて見晴らしは良かったのでしょう。

 かつての椎の木屋敷は住宅地になり、家がたくさん建っていますが、その一画に公園があります。また道路を挟んだ空き地もかつての椎の木屋敷跡です。

 公園の中に建つ於大の方の銅像。信長や秀吉、そして家康といった戦国武将の銅像は愛知県でもたくさんありますが、戦国女性の銅像は珍しいですね。清洲城に濃姫(信長正室)、あおなみ線・荒子駅前にまつ(前田利家正室)の銅像があるくらいですかね。

 於大の方由緒乃地の石碑。公園の反対側の空き地にあります。

屋敷はやはり大きかった!

 ところで現地には椎の木屋敷跡の案内看板があり、そこに本多氏時代(1710年頃)の刈谷城と周辺の絵図がありますが、そこに椎の木屋敷跡も記載されています。

 これを見ると刈谷城との位置関係が分かりやすいですね。ちなみにこの地図は上が西になっています。

 また椎の木屋敷跡をよく見ると、周辺の侍屋敷の約3つ分くらい大きな屋敷跡だった事が分かります。まあ、かつて城主の娘が住んだ屋敷ですから。

注意点と私の感想

 私の感想ですが、この椎の木屋敷は刈谷城に来た時にセットで巡る事をオススメします。その理由は刈谷城址から歩いてくる事ができる範囲ですし、数少ない家康の生母・於大の方ゆかりの地だからです。

 あと私が現地で感じた注意点ですが、椎の木屋敷には専用の駐車場が無く、また周辺の道もかなり細いので、車ではなく歩いて来た方が良いと思いました。

 公園となっている刈谷城の駐車場に車を停めて歩いても、約15分くらいで着きます。途中には刈谷城三ノ丸だった場所に郷土資料館もあるので、資料館に立ち寄りながら訪れるのがおすすめです。

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